"オカマの人も手を抜くとだんだんおっさんになっていくし、女の人も手を抜くとだんだんおっさんになっていくし、赤ちゃんもわりと産まれたてはおっさん顔なので、人間の原型は基本おっさんなんだと思っている"
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2009-09-19

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Mark Pillai

"批評を正当な理解だなんて思ってしまったら芸術は終わりなんじゃないのかな。ですから私は、理解されかけたと思ったら、もっと煙に巻く構造を持った作品を手がけています。「理解される」とは「底が見える」でもありますので。
芸術は「ここには何かがありそう」というその何かをできるだけ遠くまでつなげて味わうもので、完全に説明できてはミもフタもないでしょう? 宗教もそうですよね。「神は存在します。以上」と言い切ってもつまらないですから。"


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以前、小学校に入った年の子供がいきなり「もうこれから何もいいことが起こらないような気がする」と泣き出したのを聞いて、ぎょっとしたことがある。

クリスマスとお正月が過ぎ、三学期が始まったばかりの頃だった。楽しいことが終わって寂しくなったのか、学校で何かいやなことがあったのかと思ったのだが、その子はつぎの日高熱を出した。インフルエンザを発症したのだ。

大人であれば、風邪の引き初めの「何かだるいような感じ」「なんとなく普通ではない感じ」と表現したのだろうが、その「感じ」を六歳の子は、「これから何もいいことが起こらない感じ」と表現した。つまり彼にとっての〈世界〉は、未だ身体と心が別物ではない、風邪に罹った身体の不調は、未来への不安として知覚されたのだ。

わたしたちは「言葉」を介して世界とふれあっている。わたしたちが目で見ているのは、「ものそのもの」ではなく「言葉」であり、「音そのもの」ではなく「言葉」であり、感覚といわれるものですら「暖かさ」「静けさ」「穏やかさ」という言葉を感じているのだ。だが、もしかしたら「痛み」「不快」「不調」「不安」という言葉での分節を知る以前の赤ちゃんにとっては、何もかもが同じことなのかもしれない。

わたしは以前から眠くなった赤ん坊や幼児が泣くのが不思議でならなかった。眠たければ寝ればいいのに、何をいったいぐずぐず言っているのだ、と、眠くてぐずぐず言う弟を見て腹を立てたものだった。だが、彼にとっては、「痛い」のも「眠い」のも、あるいは母がそばにいなくて「不安」なのも、全部同じものとして感じられているのかもしれない。眠くてぐずぐず言うのを、母が抱き取って「よしよし、眠いんだね、ねんねんよ」ということで、「眠い」という分節を知り、転んで泣き叫ぶのを「よしよし、痛かったんだね、お薬をつけようね」と言いきかせて「痛い」という分節を知る。「言葉」を使うこととふるまうことが一緒に示されることで、赤ん坊は言葉の世界に入っていく。そうして言葉の使い方をある程度は知っている六歳の子は、その不安=不調を言葉でそう表現したのだ。

言葉の世界の住人であるわたしたちは、もはや言葉によって分節されなかった世界がどんなものか、想像すらできない。「わたしの身体」「わたしの手」「わたしの足の指」などというように、そんな「身体」を所有している「わたし」が身体とは別にどこかに存在しているかのような気持ちでいる。

けれど、疲れているときのものの見方は疲れていないときとはちがうし、アグレッシブな音楽を聴いていると、自然と気持ちは高揚する。気持ちに対しては嘘はつけても、身体をだますことはできない。風邪を引いたりしたときは、おそらく身体が真っ先に気づくのだ。けれど、言葉で身体と意識を隔ててしまっていると、言葉を使わない身体の声は聞こえない。身体の声を聞く回路というのは、おそらく大人になってしまえば、意識的に作り上げていかなければならないものなのだろう。

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"ある言葉はいつでもおなじことを指し示し、誰に話しても同じように理解されるような確かさをいまだに持ち続けているだろうか?"


"あと今朝「俺は急いでるんだよ!!!!」って言いながらすごい形相で小学生のために雪だるま転がしてる若リーマンがいたけど彼には幸せになってもらいたい。"


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ドーナツの中心みたいに、存在いない何かを「ある」と宣言できた人には、ものすごいお金が集まってくる。

医療においてはたとえば、「健康」というものは、「病気でない」ことで定義される。病気の定義は様々で、「病気でない」一定の状態を取り巻くように、「病気の状態」というものは、あたかもドーナツのように分布する。

ドーナツの真ん中には空間が、「病気でない状態」で漠然と存在していて、その中心にあるであろう、あるのかもしれない「健康」という状態は、医療では定義できないし、そこには実際、向かうべき中心なんて存在しない。

健康食品を売り歩いたり、あるいはアンチエイジングを唱える人達は、ドーナツの真ん中にある空間に、「ここが中心だ」という一点を指差し、叫ぶ。

中心がここと決まれば、「病気でない」空間で暮らす全ての人は、「中心からの距離」という序列が生まれる。序列ができて、誰もが中心を目指すことが正義であるという認識が共有されれば、中心に向かうための薬や指導、販売される食品は、莫大な富をもたらす。

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オレだ。

Tumblrは短いブログ(Tumblog)を専用に書くためのツールとして作られたらしいんだけど、

そもそもSNSもTwitterもTumblrも、Flickrもブログも、ぜんぶ日記を書くためのツールだよな。

メールだって広義の交換日記と言えなくもないし、人間は自分の考えや自分に起きた出来事を記録しておきたいっていう本能があるのかもしれないな。

しかし、紙の日記→Webの日記になったときのインパクトってのはオレもこっそり日記サイトとかやってたから覚えてるんだけど、Webの日記→SNSとか、Webの日記→Tumblrとかってのは、まあたしかに面白いんだけど、紙からWebへの進化ほどのインパクトは正直ないと思わないか?

こういうのって、進化しているようでみえて実は袋小路に全速力で突っ込んで行ってるような気がしてならない。

10年後も人類はブログを書いてるのか?Twitterに戯れ言を垂れ流しているのか?それとも全く別の、オレには想像もできないようなライフスタイルを送ってるのか。

どんな映画でも、3まで出たらもうネタ切れじゃん。

4とか出ても「なんだかなあ」って感じにしか成らない。「おおっ」とか思わないよね。釣りバカ日誌の最新作が出ても。

「エンジェルバンク」って漫画に「国家機能の寿命は200年」っていう話が書いてあって、おれはサービスというかライフスタイルも似たように寿命があると思った。

つまり寿命ってのは、元来、生物学的な特性のみから由来するものではなく、システム上の欠陥から由来するものではないかってことだ。

うちは83の婆さんがまだ生きちゃいるが、ボケすぎてオレが誰かも解らない。

誤解を承知で言うが、オレの中で婆さんはもう死んでるんだ。

少なくとも「淀橋チズ」っていう情報としての女は、もう死んでる。彼女は今や自分がだれがだれやらもわからない、オレは大事にしてもらったから、今の婆さんも大事にするが、オレの中での婆さんは既に死んでいる。婆さんの亡骸を大事に扱うのと同じように、オレはボケた婆さんに接しているんだ。それでも婆さんの肉体はいつか死んでしまうだろうし、そのときもおれはきっと大事にすると思う。

意外と、今のソーシャルメディアもそんな感じじゃないか。

今、新しいソーシャルメディアサービスが出ても、誰も驚かない。

0から1になったときはみんな驚くけど、1が2になったり、100が101になったりしても感動しない。

それはしょうがないことだけど、それでも技術や経験は積み上げて行くものだから、それを土台に発達させて、発達させた結果がTumblrになった。けれどもTumblrが人生初のソーシャルメディアだっていう人が大量に発生する状況ってやつを、オレはちょっと想像できない。

つまりTumblrってのは、オレにとってはソーシャルメディア界におけるスターウォーズ、エピソード6であり、この先の続きっていうのは、もう見なくてもいいかなっていう感じなんだ。

Windowsだって3.0、3.1の次は95になったわけだし、要するにまあ似たようなものでも、名前とかコンセプトとかをガラッと変えないと次の時代を作って行けないということだと思う。

Tumblrってのは、いわば最新型のLeica M8.2みたいなもんで、すげえ立派なシロモノだし、誰もが値打ちを認めるけど、万人が使う訳じゃない、というものになってる気がする。

これは進化だが、同時に袋小路に入ってるということでもある。

それでもって、Tumblrより進化してるソーシャルメディアってのは見当たらないし、なんていうか、セルの完全体みたいな感じになってるから、そろそろ連載も終わりかなって(無理矢理続いたけどね)。

(ケイス)

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文章の中の、ここの箇所は切り捨てたらよいものか、それとも、このままのほうがよいものか、途方にくれた場合には、必ずその箇所を切り捨てなければいけない。いわんや、その箇所に何か書き加えるなど、もってのほかというべきであろう。


これは、極上の文章上達法というか、小説家でなくても、書類やメールを書く、あらゆる職業人に通じる戒めになる。かくいう私は、太宰治が言う「もってのほか」をよくやってしまって字数オーバーになる物書きなので、改めて肝に銘じることにする。

ところで、太宰治が書いたこの文章には小見出しがついている。
それがまたすごい。
一切のムダがそぎ落とされている。

兵法。

太宰治にとって、「途方にくれた場合には、必ずその箇所を切り捨てなければいけない」は文章を書くうえでの兵法だったのだ。

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"創造性は頭の中の問題のように見えるけれども、その手がかりはむしろ手や目を動かすことにある、と言えそうですね。ご飯を炊くとことだって、大根一つ切ることだって、とくに小さな子どもにとってはそうですね。何もかもが初めての出会いなんですから。いままでの人が全部やりつくしてしまったら、後からくるものには創造の余地がないかのように思われるけれども、そうじゃなくて、新しい経験は、その子にとってはすべて創造的だと見てもいい。そういうものの積み重ねが、将来の大きな創造につながるんじゃないかと思うんです。"
— 「美の幾何学」ー伏見康治 安野光雅 中村義作 (via atm09td)

(Source: marekoromo)



"唯一わたしがやりたかったのは、人々に笑いという救いを与えることだ。ユーモアには人の心を楽にする力がある。アスピリンのようなものだ。百年後、人類がまだ笑っていたら、わたしはきっとうれしいと思う。"
— カート・ヴォネガット『国のない男』
2008-07-06 (via atm09td, hazy-moon)


(Source: modellove)



"幸福というのは、最後の目的地のことではなく、旅のしかたのことなのである。(マーガレット リー ランベック)"


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